八王子見て歩記/旧浅川町役場
2020年 07月 07日
高尾の旧浅川町役場
〜昭和の懐かしい木造庁舎
JR高尾駅北口から歩いて10分ほど。甲州街道から1本脇道に入った住宅街に桜色のレトロな木造建物がありました。旧浅川町役場です。建てられたのは、昭和26年(1951年)7月30日、戦後6年目のことでした。実は八王子には戦前の建物がほとんど残っていません。終戦2週間前の8月2日未明、2時間に渡り爆撃されたからです。落とされた焼夷弾は1600トン、八王子駅周辺のみならず、下恩方や高月町に至る市街地の80%が焼き尽くされました。現在、私が知っている八王子の古い建物は、昭和13年(1938年)開局の上恩方郵便局(写真上)と、明治20年(1888年)建築の八幡町の荒物加島屋様の店蔵(写真下)くらいです。(クリックで拡大)
以前は南多摩郡浅川町
なぜ建物名称が、八王子市役所浅川支所ではなく浅川町役場だったのか。それは、昭和34年(1959年)まで、浅川町は八王子市ではなく、南多摩郡だったからです。浅川町役場は浅川町が八王子市に編入される8年前の昭和26年(1951年)に建てられ、合併後も浅川支所として使用されてきました。当時は今のようなフェンスや門柱もなかったようです。
昭和25年(1950年)の国勢調査によると、当時の浅川町は人口が7,543人、主な産業は林業でした。「国勢調査 昭和25年国勢調査 / 人口総数 1950年」リスト23項目の「15 都道府県郡市区町村別人口-昭和25年 12千葉県~16富山県」が浅川町の掲載された統計です。「PDF」をクリックすればダウンロードできます。(クリックで拡大)
※ 15 / 都道府県郡市区町村別人口-昭和25年 12 / 千葉県~16富山県
建てられた当時は、まだ日本が物資不足だった時代です。同じく戦災に会った右田病院様では、終戦直後に立川市内の買家を解体し、その資材を利用して病院敷地裏の焼け跡に病院建屋を移築しています。中心市街地を罹災した街に地場産の木材を使用したモダンな建物が再建されたことは、町民の皆さんにとってさぞ勇気づけられることだったでしょう。(クリックで拡大)
エントランス
建物の玄関柱は人造石の研ぎ出し仕上げで、まるで鉄筋コンクリート造のような造形です。玄関に続く建屋は外壁は板張り。どこか、昔の小学校に似た造りでした。洋館ではなく、洋風建築といったところか。(クリックで拡大)
窓と外壁
窓は一間巾(1.82m)で、引き違い窓を二段重ねています。1階部分を見てみましょう。上段の窓は室内の天井の高さまで開口部が設けられており、下段の窓との間には雨風を防ぐ庇が設けられていて、雨の日の換気性も図られています。(クリックで拡大)
よく見ると、上段窓枠の天井部分には換気用のスリットが設置されていました。取り付けられた位置から見て、この換気口は1階の天井と2階床下の空間を換気するためのものでしょう。躯体内に熱や湿気がこもらない工夫です。(クリックで拡大)
階段室
階段だけが置かれた空間、階段室は建物から少し出っ張っています。
階段室の窓は高い位置に取り付けられています。外光をより奥まで取り入れるための工夫でしょう。
階段室から奥は平屋建てになっていました。小学生の時の林間学校は宿舎がこんな建物だった。懐かしい。それにしても手入れが行き届いています。あの物不足の時代に良質な木材で建てたのでしょうね。(クリックで拡大)
駐車場側
エントランスの裏側が駐車場になっていました。こちら側は、いよいよ木造小学校っぽい。朝礼台が置いてあっても不思議じゃありません。(クリックで拡大)
左の建物から順に撮りました。現役当時の用途は分かりませんが、小学校だったら左の小屋は体育用具置場という感じ。(クリックで拡大)
中央部分。同じく小学校だったら教室のある部分ですね。(クリックで拡大)
左の平屋建て部分。保健室か、低学年の教室か。そういえば、小学校の教室配置は、低学年ほど低層にありました。(クリックで拡大)
建物から飛び出している小部屋の部分は、多分、給湯室などの水回りです。木造建物では、トイレや流しなどはこのような建て方をしていました。(クリックで拡大)
旧浅川町の住民の皆さんを支えた旧浅川町役場は、現在も往時の姿のまま保存されています。今は、浅川地区社会福祉協議会と上宿倶楽部が入居されているようです。
敷地に植えられた赤松は屋根を超える高さにまで成長しています。築69年も経つのにしゃんとした建物とともに過ごしてきた年月を感じさせます。(クリックで拡大)
〜昭和の懐かしい木造庁舎
以前は南多摩郡浅川町
なぜ建物名称が、八王子市役所浅川支所ではなく浅川町役場だったのか。それは、昭和34年(1959年)まで、浅川町は八王子市ではなく、南多摩郡だったからです。浅川町役場は浅川町が八王子市に編入される8年前の昭和26年(1951年)に建てられ、合併後も浅川支所として使用されてきました。当時は今のようなフェンスや門柱もなかったようです。
昭和25年(1950年)の国勢調査によると、当時の浅川町は人口が7,543人、主な産業は林業でした。「国勢調査 昭和25年国勢調査 / 人口総数 1950年」リスト23項目の「15 都道府県郡市区町村別人口-昭和25年 12千葉県~16富山県」が浅川町の掲載された統計です。「PDF」をクリックすればダウンロードできます。(クリックで拡大)
※ 15 / 都道府県郡市区町村別人口-昭和25年 12 / 千葉県~16富山県
エントランス
建物の玄関柱は人造石の研ぎ出し仕上げで、まるで鉄筋コンクリート造のような造形です。玄関に続く建屋は外壁は板張り。どこか、昔の小学校に似た造りでした。洋館ではなく、洋風建築といったところか。(クリックで拡大)
窓と外壁
窓は一間巾(1.82m)で、引き違い窓を二段重ねています。1階部分を見てみましょう。上段の窓は室内の天井の高さまで開口部が設けられており、下段の窓との間には雨風を防ぐ庇が設けられていて、雨の日の換気性も図られています。(クリックで拡大)
階段室
階段だけが置かれた空間、階段室は建物から少し出っ張っています。
駐車場側
エントランスの裏側が駐車場になっていました。こちら側は、いよいよ木造小学校っぽい。朝礼台が置いてあっても不思議じゃありません。(クリックで拡大)
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敷地に植えられた赤松は屋根を超える高さにまで成長しています。築69年も経つのにしゃんとした建物とともに過ごしてきた年月を感じさせます。(クリックで拡大)
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by u-t-r
| 2020-07-07 16:00
| 八王子見て歩記