八王子見て歩記/徳利亀屋に三加島-2
2019年 10月 08日
徳利亀屋に三加島
第2話:「織物の街、八王子ならではの店」
八王子大商店写真画貼
49ものお店を掲載した写真集「大正五年 八王子大商店街 写真画貼」。商品別に分けて順にご紹介していきます。今回は、呉服屋さんや染料屋さんなど八王子ならではの織物関係のお店をまとめてみました。幕末〜明治にかけての八王子は、横浜港から輸出する絹製品の集積地でありました。初期は絹の道を大八車で横浜まで運んでいたそうです。その後、横浜線が開通して鉄道で運ぶようになりました。
写真は、織物製造家で、職人でもあった小川時太郎氏の庭園です。明治23年(1890年)の第3回内国勧業博覧会で、彼が開発した「絞糸織(通称:一楽織)」が一等有功賞となりました。一楽織は経緯糸とも先練り・先染めの絹糸を用いた絹織物。 組織が平織りと綾織りを組み合わせた形になっているため、しなやかで腰のある風合いをもち、着尺地として明治年間に広く用いられました。小川氏は明治38年(1905年)11月から大正9年1920年)12月まで第四代八王子織物同業組合組長を務めています。
呉服屋
一番多く掲載されたお店は呉服屋さんで、5店舗でした。最初は1話にも登場した呉服加島(城所國三郎)さん。現存する八幡町の荒物加島屋さんによく似た造りの店蔵です。(クリックで拡大)
続いて坂本呉服店さん。江戸時代の商家といった感じの店構え。(クリックで拡大)
呉服太物の梅原商店さん。お店の前に灯台みたいな塔をを立てちゃってます。甲州街道はまだ舗装されていませんでした。武蔵中央電気鉄道が開通したのは昭和4年。その頃に石畳が敷かれたようです。(クリックで拡大)
森田呉服店さん。店名看板をお嫁入、七五三の御祝着の宣伝看板が挟んでいます。用いられている書体はなんという名前なんでしょう。昭和中期まで看板でよく見かけた文字です。(クリックで拡大)
米屋呉服店さん。風格ある右の店構えと対照的なハイカラな左の売り場。看板建築とも呼ばれる建て方なんでしょうね。外観は洋風だけど造りは木造軸組という。(クリックで拡大)
足袋屋
足袋屋さんが2軒。靴屋さんの写真はありませんでした。熊本足袋店さん。店員さんは皆さん和服姿です。どのお店も自転車を誇らしげに並べているのは、きっと当時、高価だったせいでしょう。(クリックで拡大)
足袋・股引の山本屋双田商店さん。袖看板がシャツと足袋の形です。ひな壇形の陳列台、吊り下げられたシャツ。今でも巣鴨商店街でよく見る陳列方法です。(クリックで拡大) 染料屋
産業関係では染料屋さんが4軒載っていました。八王子繊維産業の興盛期ですもの。仕入先が多かったことでしょう。写真は朝倉甚五郎商店さん。自転車とともに、樽を積んだ大八車が登場です。右端のスーツ姿は店主でしょうか。(クリックで拡大)
樽と俵を積み上げた橋本商店さん。染料って液体だけじゃなかったんですね。(クリックで拡大)
富田商店さんの看板には「ゑのぐ染料」とあります。今では「あいうえお」ばかりですが、昭和中期までは「ゐ」「ゑ」もよく使われており、それぞれ「ゐ=うぃ」「ゑ=うぇ」と発音しました。「うぇのぐ」ですね。エプロン姿の女店員さんが可愛い!(クリックで拡大)
秤屋
杉本衝器製作さんは、度量衡と帳簿の製造販売をしていました。度量衡とは、ものさし・ます・はかりのこと。糸掛鍵秤には定評があると広告に記載しています。(クリックで拡大) 肥料屋
肥料問屋だった秋間商店さん。商品が重いだけに大八車が勢ぞろいです。甲武鉄道が通る前の八王子駅北口、今の子安町は畑が続く田園地帯だったと古老がおっしゃっていました。(クリックで拡大)
肥料・海産物の岩井國吉さん。中央に男の子と女の子が仲良く立っています。ご兄妹だったのかしらん。向かって左の売り場は肥料を、右は海産物(干物)を売っていたようですね。(クリックで拡大)
燃料屋
コークスとコールタールを一手に販売していた松本屋さん。お店の左に大八車が並んでいます。当時は自動車が高価だったため、配達は人手でした。(クリックで拡大)
次回は庶民のお買い物の店をご紹介します。
看板だけは新しいけど、建物は江戸時代という感じですね。東京23区内だって、関東大震災で被災するまでは江戸時代そのままの景色だったそうですよ。堀割に土蔵、主な輸送手段は船に大八車。もちろん道路だってまだほとんど舗装されていませんでした。鬼平が同心を率いて事件解決に奔走してたころと同じ街並だったんでしょうね。
第2話:「織物の街、八王子ならではの店」
八王子大商店写真画貼
写真は、織物製造家で、職人でもあった小川時太郎氏の庭園です。明治23年(1890年)の第3回内国勧業博覧会で、彼が開発した「絞糸織(通称:一楽織)」が一等有功賞となりました。一楽織は経緯糸とも先練り・先染めの絹糸を用いた絹織物。 組織が平織りと綾織りを組み合わせた形になっているため、しなやかで腰のある風合いをもち、着尺地として明治年間に広く用いられました。小川氏は明治38年(1905年)11月から大正9年1920年)12月まで第四代八王子織物同業組合組長を務めています。
呉服屋
一番多く掲載されたお店は呉服屋さんで、5店舗でした。最初は1話にも登場した呉服加島(城所國三郎)さん。現存する八幡町の荒物加島屋さんによく似た造りの店蔵です。(クリックで拡大)
足袋屋
足袋屋さんが2軒。靴屋さんの写真はありませんでした。熊本足袋店さん。店員さんは皆さん和服姿です。どのお店も自転車を誇らしげに並べているのは、きっと当時、高価だったせいでしょう。(クリックで拡大)
産業関係では染料屋さんが4軒載っていました。八王子繊維産業の興盛期ですもの。仕入先が多かったことでしょう。写真は朝倉甚五郎商店さん。自転車とともに、樽を積んだ大八車が登場です。右端のスーツ姿は店主でしょうか。(クリックで拡大)
杉本衝器製作さんは、度量衡と帳簿の製造販売をしていました。度量衡とは、ものさし・ます・はかりのこと。糸掛鍵秤には定評があると広告に記載しています。(クリックで拡大)
肥料問屋だった秋間商店さん。商品が重いだけに大八車が勢ぞろいです。甲武鉄道が通る前の八王子駅北口、今の子安町は畑が続く田園地帯だったと古老がおっしゃっていました。(クリックで拡大)
コークスとコールタールを一手に販売していた松本屋さん。お店の左に大八車が並んでいます。当時は自動車が高価だったため、配達は人手でした。(クリックで拡大)
次回は庶民のお買い物の店をご紹介します。
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看板だけは新しいけど、建物は江戸時代という感じですね。東京23区内だって、関東大震災で被災するまでは江戸時代そのままの景色だったそうですよ。堀割に土蔵、主な輸送手段は船に大八車。もちろん道路だってまだほとんど舗装されていませんでした。鬼平が同心を率いて事件解決に奔走してたころと同じ街並だったんでしょうね。
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取材協力:八王子市郷土資料館
by u-t-r
| 2019-10-08 16:00
| 八王子見て歩記