八王子見て歩記/坂本々店(前編)

前編:明治13年創業のお肉屋さん
坂本々店/八王子市八日町
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甲州街道(国道20号線)の繁華街、八日町交差点近くにある街のお肉屋さん。「味自慢 やき豚」のユーモラスなブタさんの看板が目を引きます。店名看板には「坂本々店」「創業明治13年」の文字が。明治13年(1880年)といえば、今から138年も昔です。明治維新から13年後、勝海舟や徳川最後の将軍・一橋慶喜公は存命中で、3年前に帝国大学(現:東京大学)が開校したばかり。鹿鳴館や上野動物園はまだ完成していませんでした。明治4年(1871年)8月9日に「国民の頭容を一変し、いわゆる開化人らしくするために、散髪脱刀勝手たるべし」(散発脱刀勝手令)の太政官布告が発令されましたが、街中にはちょんまげ頭の人もまだ残っていたようです。たぶん、八王子でも。

明治に入ったばかりの八王子にお肉屋さんがあっただなんて、本当に不思議です。というのも江戸時代の庶民の食生活は野菜や魚が中心で、肉食は鶏肉くらいしか普及していませんでした。でもどうしてもお肉が食べたい時はどうするか。たとえばウサギは「鵜(ウ)」と「鷺(サギ)」だとして、1羽2羽と数えていました。同様にイノシシの肉は「山クジラ」、鹿は「モミジ」、馬は「サクラ」と言い換える。いずれも最後に「鍋」が付きます。料理屋さんはあっても、お肉屋さんはなかったんです。

創業のころ

「坂本々店と書いて坂本本店と読みます。他に支店2店舗と仕出し屋を経営していた時代の名残りです。当店の公式な創業年は明治13年(1880年)。この年に神奈川県から『牛馬売買免許鑑札』をいただいたことにちなんでいます。当時、精肉業を営むためには、この鑑札が必要でした。」(クリックで拡大)
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「鑑札には『神奈川県武蔵野南多摩郡八王子八日町』とあります。明治4年(1871年)に実施された廃藩置県の結果、三多摩の大半は神奈川県に所属することになりました。八王子を含む三多摩が東京府に移管されたのは、鑑札をいただいて13年後の明治26年(1893年)のことです。だから、当店が創業した明治13年の八王子はまだ神奈川県だったんですね。ちなみに、裏書きにある太郎吉は二代目の店主です。」
『牛馬売買免許鑑札』は手書きの木札で、免許番号も59号と若い。神奈川県にまだお肉屋さんがそのくらいしかなかったんでしょう。(クリックで拡大)
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明治時代のお肉屋さん

文明開化とともに牛鍋の流行がはじまりました。牛鍋とは、かつて明治時代初期に外国人の肉食をまねるために横浜の地で生まれた鍋料理で、絹の道が通っていた八王子の地でも普及していきます。統計によると、明治10年(1877年)の牛と畜頭数は3万4千頭,、一方、近年の平成29年(2017年)には約104万頭(農林水産省:畜産物流通調査)です。当時は庶民にはまだまだ贅沢品だったようですね。

「鑑札制度ができる以前から、うちではすでに肉屋をはじめておりまして。八日町の地で創業したころには、精肉店と同時にすき焼き屋を営業していました。屋号を『上や(あがりや)』と言いました。四角い七輪に鍋を乗せて、お客さんが牛肉を煮込みます。当時の八王子繊維産業は景気がよく、織り機をガチャン!と動かすたびに1万円札が入ってくるように儲かる。その様子をガチャマンと呼んでいました。お金のある機屋さんが芸者さんを呼んで一緒にすき焼きをつつくのが大流行したのです。近くの富士銀行(現:みずほ銀行)などは、日本で一番預金者が多い銀行でしたね。」
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「まだ甲州街道の道幅が2車線(今の半分ほど)しかなく、店前の東京環状も同じように半分の2車線だったのです。その分、すき焼き『上や』は、今より奥行がありました。間口は、当店と隣の平屋建ての建物を合わせた幅で、奥行は前に数mほど前進した縦長の敷地でした。外観は赤い建物で、『竜宮城』と呼ばれていたそうです。惜しくも八王子大空襲で焼失してしまいましたが、今でも創業当時の建物の壁が一部残っていますよ。駐車場側の奥に高い壁が2枚ありますが、この外壁の上に木造の建物が建っていたそうです。」(クリックで拡大)
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「明治期は電気式冷蔵庫がまだ一般に普及しておらず、氷式冷蔵庫も大正時代に入ってからでした。当時は井戸水の流水の上に肉を置いて冷やしていたと聞いています。牛肉のほか、長野が近い八王子では馬肉の入手も容易でした。主なお取引先は、お蕎麦屋さんやすき焼き屋さん。お隣の相模原には肉屋が1軒もなかったので、注文をいただくと汽車に乗って配達しに行きました。旅館の三渓園さんや、ボートクラブの合宿所・大正館さんなどがお客さんだったそうです。」

昭和に入って

「私が子ども時代を過ごした昭和期は、戦後になって一般家庭でも豚肉をよく利用するようになりました。あの頃は赤身のモモ肉が売れ筋でしたね。最近では一転してバラ肉の方が人気筋です。クックドゥなど合わせ調味料のCMの影響でしょうか。高度成長期の昭和39年(1964年)になると東京オリンピックの経済効果というべきか、都内で一気にお肉屋さんが増えたのです。その後少しずつ減少していきました。」

「学校の給食も街のお肉屋さんが毎日納めているんですよ。子どもさんたちの成長に欠かせない新鮮で美味しいお肉をお届けするのも、私たちの大切な仕事です。」

「昭和時代は揚げ物がよく売れました。あまりに人気があるので、手作りじゃ間に合わなくなってコロッケを作る機械を入れたほどです。一日に数百個は揚げていたんじゃないでしょうか。当時はコロッケの値段が5円〜7円くらい。余談ですが、今も西放射線通りにある竹の家さんのラーメンが40円でしたっけ。最近、主婦が何人かで来られて、コロッケやカツを共同購入〜みんなで分けて持ち帰られる方がいらっしゃいます。順番を待たずにすみますもんね。うまく考えたもんだ。」
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「スマホでレシピを見ながら注文される若い奥さん方も増えました。中には『70グラムくださ〜い』なんて方もいらっしゃいます。1人前に必要な量が35グラムで、2人前作りたかったらしい。3人前なら105グラムですね(笑)。そんなに小刻みな計量はできないので、『あいすいません。100グラム以上でお願いできますか?』とお答えしているんですよ。便利になったような不便なような。」
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昭和30年前後の近所のようす

「甲州街道沿いの歩道は昭和時代にはアーケードが延々と続く一大商店街でした。今ではアーケードも大部分が撤去され、残ったお店も少なくなりました。昭和時代は国鉄八王子駅周辺には丸井くらいしかなく、買物をする人は甲州街道まで歩いてきたものです。」(クリックで拡大)
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坂本様のお店で取材をしていると、学校帰りの子どもたちが挨拶をしていきます。『ただいま!』『おかえり〜』。
「地域のお子さんたちのお顔は当然憶えておりますよ。親御さんがどなたなのかも。みんな顔見知りなんですから。もし外で危ない目に遭ったら、お店に逃げ込めばいいんです。地域の小売店は、子どもさんを守る砦でもあるんです。」

「当店前の道路は東京環状です。かつては、この通りにも店がたくさんありました。買物時になると、たくさんの買い物客で賑わったものでした。今ではうちのお店の他はほとんど飲食店とコンビニだけ。私が憶えている昭和時代の商店街を地図にしてみましょう。」
※地図上の各お店は並び順だけの表記で、当時の実際の敷地面積は反映していません。
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後編ではお店の中を見学させていただきました。

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私が子どものころは、街中で危ない目には遭わなかったけど、学校帰りに揚げたてコロッケを食べるのが楽しみだったなぁ。

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取材協力:坂本々店/八王子市八日町1-18
TEL.042-622-5046

坂本々店(2話)
前編:明治13年創業のお肉屋さん(当記事)
後編:お肉屋さんの舞台裏

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by u-t-r | 2019-01-08 16:00 | 八王子見て歩記

UTR不動産です。八王子の歴史や暮らしをコツコツ取材しています。基本は「直接ご本人に会ってお話しを聞く!」。地元の話題が多いですが、どうぞお付き合いのほどを。


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