八王子見て歩記/船田石器時代遺跡
2018年 02月 27日
縄文時代も今も人が住んでいました
船田石器時代遺跡/長房町
JR西八王子駅の北西にある都営団地が立ち並ぶ長房町。お子さん連れのお母さん、学校帰りの学生さん、たくさんの住民の方たちが行き来しています。こんな街の中に船田石器時代遺跡はありました。八王子市内で縄文時代の人が住んでいた遺跡といえば、中田遺跡公園と椚田遺跡公園が有名です。どちらもかつての住居遺跡を公園として整備し、柱の跡や敷石を展示したり、住居そのものを再現展示しています。八王子は古くから人が住んでいた場所で、高尾には縄文人が狩りをした落とし穴まで見つかっているそうです。長房町の船田遺跡はその点ちょっと地味です。団地の中の運動場に石碑が1つ建っているだけ。保護のために住居跡は埋め戻されて、当時の面影はどこにもありません。知る人ぞ知る遺跡といったところでしょうか。
中舟田公園
長房団地の真ん中を走る道路の1本裏手に車を停めて、まずは遺跡の場所を確認しました。住宅街側にある高台の階段は「中舟田公園」の入口です。
階段を上がって園内に入ってみましょう。
右側に防球ネットに囲まれた運動場と鉄棒。
左側には芝生の土盛りと滑り台。あれ?遺跡がない!
遺跡は中郷児童館長房分室のお隣
遺跡が見つからないので、近くの「中郷児童館長房分室」様に聞いてみました。「あぁ、向かいの運動場みたいなところにありますよ」。え?公園の中じゃなくって?
「中郷児童館長房分室」様の横の階段を上がるとすぐ運動場です。
遺跡があるという運動場に着きました。
来る前はもっと、こう、椚田遺跡公園のような景色を想像していたのですよ。ここまで何もないとは思いませんでした。ふと、右側のフェンスに目をやると。あった!ありました!「史蹟 船田石器時代遺蹟」の石碑が。ここで間違いないようです。(クリックで拡大)
石碑の左側面に刻まれていたのは建立された年と根拠でした。(クリックで拡大)
史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ
昭和三年一月内務大臣指定
遺跡は発掘後に埋め戻されて、運動場の下に眠っているそうです。
この場所を中心に317棟もの住居跡が発見されました。
団地の中にある縄文遺跡
船田石器時代遺跡の発掘調査が行われたのは昭和2年(1927年)でした。発見された住居跡は1軒のみでしたが、当時としては大変貴重であったために翌年に国史跡に指定されました。住居は直径5メートルほどの範囲に扁平な川原石を敷いたもので、中央に直径60センチほどの炉があり、土器が埋められていました。時代は縄文時代後期で、敷石住居跡とみられています。石碑には「石器時代遺跡」とありましたが、これは戦前の時代区分で、現在は縄文時代に分類されています。旧石器時代は打製石器(石を打ち欠いてつくった石器)、新石器時代(縄文時代)には磨製石器(石を磨いてつくった石器)が使われていました。
遺跡は東に向かって流れる南浅川に北側から流入する船田川の右岸にあり、昭和2年(1927年)の発掘調査で敷石住居が1棟発見されました。当時としては貴重な遺跡であったことから翌年に国の史跡に指定され、昭和43年(1968年)以降、古墳(船田古墳)1基と住居跡317棟が確認され、大集落跡であることが分かりました。このうち、船田遺跡(1期)の集落跡からは、4本の柱の上に梁をかけて屋根を葺く竪穴式住居が16棟検出されました。多くは南側に入口を設け、方形ないしは円形の貯蔵穴を建物の隅に持っていました。多いのは3m代(5棟)と4m代(7棟)で、もっとも大型の建物は7.2m×6.8mありました。この集落をよく見ると、西側に分布する建物間が近接しすぎて同時に建てられたとは考えられないところから、少なくとも二時期にわたって存在した可能性があるそうです。
現在は埋め戻されて広場になっていますが、敷石住居は直径約5mの範囲に河原石を敷いたもので、中央に直径約60cmの炉がありました。住居の床に堅い石を敷き詰めた理由はよく分かっていません。土間のような堅い床面効果があったという説、石に炉の熱が伝わり保温効果があったという説があります。似た住居跡の遺跡として八王子市内では椚田遺跡公園の敷石住居跡(再現モデル)が有名です。(クリックで拡大)
失われた遺跡
なぜ国史跡に指定されていた船田石器時代遺跡に説明板が設置されていないのでしょう。調べてみると、戦前に円形の敷石住居跡を発見したものの、その後、昭和20年(1945年)までこの地を陸軍幼年学校の敷地として利用したので遺跡が荒廃してしまい、実はどこにあったか分からなくなってしまったようです。さらに、戦後の耕地再編成により、指定の範囲は不明確となり、昭和43年(1968年)からはじまった東京都住宅建築事業による新長房団地造成に際しても、旧地番を確認することができませんでした。また造成事業に伴う総合的な発掘調査によって遺跡としての実体が失われていることが明らかになったので、昭和44年(1969年)に国の指定が解除されてしまいました。今では、石碑の下が遺跡が埋められている場所かどうかも分からなくなっています。
なんと悲しい結末。
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発見された時は大変貴重な遺跡とされましたが、その後、この種の敷石住居跡が各地で検出されたことによっても、遺跡としての価値が低くなってしまったようです。きっと、発見当初は大変な盛り上がりだったでしょうに。
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取材協力:八王子市郷土資料館
参考資料:新八王子市史 通史編1 原始・古代
船田石器時代遺跡/長房町
JR西八王子駅の北西にある都営団地が立ち並ぶ長房町。お子さん連れのお母さん、学校帰りの学生さん、たくさんの住民の方たちが行き来しています。こんな街の中に船田石器時代遺跡はありました。八王子市内で縄文時代の人が住んでいた遺跡といえば、中田遺跡公園と椚田遺跡公園が有名です。どちらもかつての住居遺跡を公園として整備し、柱の跡や敷石を展示したり、住居そのものを再現展示しています。八王子は古くから人が住んでいた場所で、高尾には縄文人が狩りをした落とし穴まで見つかっているそうです。長房町の船田遺跡はその点ちょっと地味です。団地の中の運動場に石碑が1つ建っているだけ。保護のために住居跡は埋め戻されて、当時の面影はどこにもありません。知る人ぞ知る遺跡といったところでしょうか。
中舟田公園
長房団地の真ん中を走る道路の1本裏手に車を停めて、まずは遺跡の場所を確認しました。住宅街側にある高台の階段は「中舟田公園」の入口です。
階段を上がって園内に入ってみましょう。
右側に防球ネットに囲まれた運動場と鉄棒。
左側には芝生の土盛りと滑り台。あれ?遺跡がない!
遺跡は中郷児童館長房分室のお隣
遺跡が見つからないので、近くの「中郷児童館長房分室」様に聞いてみました。「あぁ、向かいの運動場みたいなところにありますよ」。え?公園の中じゃなくって?
「中郷児童館長房分室」様の横の階段を上がるとすぐ運動場です。
遺跡があるという運動場に着きました。
来る前はもっと、こう、椚田遺跡公園のような景色を想像していたのですよ。ここまで何もないとは思いませんでした。ふと、右側のフェンスに目をやると。あった!ありました!「史蹟 船田石器時代遺蹟」の石碑が。ここで間違いないようです。(クリックで拡大)
石碑の左側面に刻まれていたのは建立された年と根拠でした。(クリックで拡大)
史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ
昭和三年一月内務大臣指定
遺跡は発掘後に埋め戻されて、運動場の下に眠っているそうです。
この場所を中心に317棟もの住居跡が発見されました。
団地の中にある縄文遺跡
船田石器時代遺跡の発掘調査が行われたのは昭和2年(1927年)でした。発見された住居跡は1軒のみでしたが、当時としては大変貴重であったために翌年に国史跡に指定されました。住居は直径5メートルほどの範囲に扁平な川原石を敷いたもので、中央に直径60センチほどの炉があり、土器が埋められていました。時代は縄文時代後期で、敷石住居跡とみられています。石碑には「石器時代遺跡」とありましたが、これは戦前の時代区分で、現在は縄文時代に分類されています。旧石器時代は打製石器(石を打ち欠いてつくった石器)、新石器時代(縄文時代)には磨製石器(石を磨いてつくった石器)が使われていました。
遺跡は東に向かって流れる南浅川に北側から流入する船田川の右岸にあり、昭和2年(1927年)の発掘調査で敷石住居が1棟発見されました。当時としては貴重な遺跡であったことから翌年に国の史跡に指定され、昭和43年(1968年)以降、古墳(船田古墳)1基と住居跡317棟が確認され、大集落跡であることが分かりました。このうち、船田遺跡(1期)の集落跡からは、4本の柱の上に梁をかけて屋根を葺く竪穴式住居が16棟検出されました。多くは南側に入口を設け、方形ないしは円形の貯蔵穴を建物の隅に持っていました。多いのは3m代(5棟)と4m代(7棟)で、もっとも大型の建物は7.2m×6.8mありました。この集落をよく見ると、西側に分布する建物間が近接しすぎて同時に建てられたとは考えられないところから、少なくとも二時期にわたって存在した可能性があるそうです。
現在は埋め戻されて広場になっていますが、敷石住居は直径約5mの範囲に河原石を敷いたもので、中央に直径約60cmの炉がありました。住居の床に堅い石を敷き詰めた理由はよく分かっていません。土間のような堅い床面効果があったという説、石に炉の熱が伝わり保温効果があったという説があります。似た住居跡の遺跡として八王子市内では椚田遺跡公園の敷石住居跡(再現モデル)が有名です。(クリックで拡大)
失われた遺跡
なぜ国史跡に指定されていた船田石器時代遺跡に説明板が設置されていないのでしょう。調べてみると、戦前に円形の敷石住居跡を発見したものの、その後、昭和20年(1945年)までこの地を陸軍幼年学校の敷地として利用したので遺跡が荒廃してしまい、実はどこにあったか分からなくなってしまったようです。さらに、戦後の耕地再編成により、指定の範囲は不明確となり、昭和43年(1968年)からはじまった東京都住宅建築事業による新長房団地造成に際しても、旧地番を確認することができませんでした。また造成事業に伴う総合的な発掘調査によって遺跡としての実体が失われていることが明らかになったので、昭和44年(1969年)に国の指定が解除されてしまいました。今では、石碑の下が遺跡が埋められている場所かどうかも分からなくなっています。
なんと悲しい結末。
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発見された時は大変貴重な遺跡とされましたが、その後、この種の敷石住居跡が各地で検出されたことによっても、遺跡としての価値が低くなってしまったようです。きっと、発見当初は大変な盛り上がりだったでしょうに。
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取材協力:八王子市郷土資料館
参考資料:新八王子市史 通史編1 原始・古代
by u-t-r
| 2018-02-27 16:00
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