八王子見て歩記/御所水弁財天
2015年 12月 08日
松姫さまと湧き水の里
御所水弁財天/八王子市台町
松姫さまの信松院を通過して御所水通りをまっすぐ。八王子市民球場前の小さな谷戸の奥に御所水(ごしょみず)辨財天があります。2基の木碑は参道の入口です。ここはかつて清れつな湧き水が流れ出す場所でした。小宮公園に大谷弁天池があるように、弁天様は水との縁が深く、湧き水と弁天池が付きものです。というのも、弁天様は七福神のひとりとしても知られる福の神であり、さらにルーツを辿ればインドの河の神様・サラスバティという女神なのです。妙なる河の調べから音楽・芸術の神様として信仰を集め、さらには弁舌才知・学業成就の福徳を持つに至ったのですね。昔は八王子七福神めぐりに数えられた御所水辨財天ですが、今は了法寺様の新護弁財天に代わっています。
松姫さまのころ
武田信玄息女松姫さまが上由井領の御所水の里(今の台町)に庵を建てたのは、今から425年前の天正18年(1590年)秋でした。「武田信玄息女 松姫さま(北島藤次郎著)」によれば、当時の景色はこのような姿だったといいます。(写真はイメージです)
御所水の里は、いま信松院があるところから南へ、約数百メートル(五町)ほどいったところ。そのころはいま富士森公園がある西側の丘陵から、清れつな湧き水がこんこんと流れだし、かなり大きな沼地があった。
この池にはきれいな杜若(かきつばた)がたくさん自生し、池の周囲にはつつじなどもたくさん植えられ、築山には風流なあずまやなども建っていた。また、付近にはかやぶき屋根の民家も点在し、池の南岸の丘陵には、松の古木が青々と生い茂り、すこぶる幽邃(ゆうすい)な景勝地となっていた。
したがってこの付近の人々は、この景勝を鑑賞するため、散歩にやってくる好適の場所となっていたが、このように山水の名画を鑑賞するような景勝の地だったから、誰いうとなく「御所水」といわれるようになったのだといい伝えられている。
昭和22年(1947年)に米軍が撮影した空中写真です。御所水辨財天のまわりは一面の水田と畑で、まだ富士森公園の野球場はできていません。現在の富士森公園の場所にある横長の窪地がその昔の沼の跡だと思います。(クリックで拡大)
地蔵堂と2基の木碑
参道入口の左に建っていたのは小さな地蔵堂。
建立されたのは平成20年(2008年)9月。中におわしますのは2尊のお地蔵様です。千羽鶴にお花、近隣の方がお世話されているのでしょう。
大きな方の木碑は平成21年(2009年)10月建立。地蔵堂の翌年です。
小さな方の木碑の上に乗っていたのはとぐろを巻いた蛇でした。御所水辨財天は養蚕の神として祀られ、使いである蛇が養蚕の敵であるネズミを追い払うという言い伝えから養蚕農家の信仰をあつめました。
一の鳥居と祠
参道を歩いていくと石造の一の鳥居がありました。
建立は大正15年(1926年)5月。八王子大空襲を生き延びた歴史の証人です。
鳥居をくぐった参道右側の草むらに小さな石の祠。宝暦2年(1752年)の銘が入っているので、今から263年前に建立されたものです。8代将軍徳川吉宗が死去した翌年にあたります。
溶岩石の台座だけ残った何かの跡。
参道の中央が暗渠になっているのは、豊かな湧き水が流れていた名残りでしょう。
前方に二の鳥居と赤い屋根が見えてきました。御所水辨財天です。
二の鳥居と御社殿
二の鳥居は昭和6年(1931年)5月15日建立でした。2つの鳥居とも八王子大空襲以前からお社を守ってきたのです。
左右1対の石灯籠は大正15年(1926年)1月に建立されました。
赤い金属屋根の御社殿はまるで民家のよう。お社全体は谷地に建っています。
御鈴と叶緒(かねのお)。
扁額はちょっと変わっていて、寛永通宝199枚で「弁才天」と象ってありました。緑青を吹いているのは、江戸時代中期の勘定奉行・川井久敬が明和5年(1768年)から鋳造を開始した真鍮四文銭でしょう。背面に川井家の家紋である波が入っているところから波銭とも呼ばれます。発行初年は家紋通り二十一波でしたが、鋳造が困難だったため途中から十一波にするはめに。(クリックで拡大)
お賽銭箱は大正14年9月12日に寄進されたもの。
御社殿内部を窓ガラス越しに撮らせていただきました。(クリックで拡大)
よく見る弁天様は、手が2本でバチを持って奏する音楽の神様ですが、御所水辨財天には手が8本あります。持っているのも、弓、矢、刀、矛、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく)と全てが武器。鎮護国家の戦神としてのお姿です。
御所水開運辨財天
御社殿の横から奥に通じる道がありました。
そこにあったのは三の鳥居と小さな祠。一般に神社は参道正面に御拝殿、その裏に御本殿という配置です。ここが本来のお社でしょう。
赤いお屋根の祠と、右に石碑。
石碑には、「奉納 昭和四拾年九月吉日 御所水 開運辨財天 伍拾年記念」とありました。
祠の裏手は崖になっています。おそらく、北島先生の「いま富士森公園がある西側の丘陵から、清れつな湧き水がこんこんと流れだし」と書かれた水源は、この祠のあたりかと思いました。
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その昔。甲州街道を稼いで歩く門付け(かどづけ)の、祭文(さいもん)や音曲師(おんきょくし)、それに旅芸人などは、御所水村まで足をのばし、この御所水辨財天に技芸の向上を願ったそうです。(八王子市図書館報No.113より)
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参考資料:「武田信玄息女 松姫さま」(北島藤次郎著)、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス)
御所水弁財天/八王子市台町
松姫さまの信松院を通過して御所水通りをまっすぐ。八王子市民球場前の小さな谷戸の奥に御所水(ごしょみず)辨財天があります。2基の木碑は参道の入口です。ここはかつて清れつな湧き水が流れ出す場所でした。小宮公園に大谷弁天池があるように、弁天様は水との縁が深く、湧き水と弁天池が付きものです。というのも、弁天様は七福神のひとりとしても知られる福の神であり、さらにルーツを辿ればインドの河の神様・サラスバティという女神なのです。妙なる河の調べから音楽・芸術の神様として信仰を集め、さらには弁舌才知・学業成就の福徳を持つに至ったのですね。昔は八王子七福神めぐりに数えられた御所水辨財天ですが、今は了法寺様の新護弁財天に代わっています。
松姫さまのころ
武田信玄息女松姫さまが上由井領の御所水の里(今の台町)に庵を建てたのは、今から425年前の天正18年(1590年)秋でした。「武田信玄息女 松姫さま(北島藤次郎著)」によれば、当時の景色はこのような姿だったといいます。(写真はイメージです)
御所水の里は、いま信松院があるところから南へ、約数百メートル(五町)ほどいったところ。そのころはいま富士森公園がある西側の丘陵から、清れつな湧き水がこんこんと流れだし、かなり大きな沼地があった。
この池にはきれいな杜若(かきつばた)がたくさん自生し、池の周囲にはつつじなどもたくさん植えられ、築山には風流なあずまやなども建っていた。また、付近にはかやぶき屋根の民家も点在し、池の南岸の丘陵には、松の古木が青々と生い茂り、すこぶる幽邃(ゆうすい)な景勝地となっていた。
したがってこの付近の人々は、この景勝を鑑賞するため、散歩にやってくる好適の場所となっていたが、このように山水の名画を鑑賞するような景勝の地だったから、誰いうとなく「御所水」といわれるようになったのだといい伝えられている。
昭和22年(1947年)に米軍が撮影した空中写真です。御所水辨財天のまわりは一面の水田と畑で、まだ富士森公園の野球場はできていません。現在の富士森公園の場所にある横長の窪地がその昔の沼の跡だと思います。(クリックで拡大)
地蔵堂と2基の木碑
参道入口の左に建っていたのは小さな地蔵堂。
建立されたのは平成20年(2008年)9月。中におわしますのは2尊のお地蔵様です。千羽鶴にお花、近隣の方がお世話されているのでしょう。
大きな方の木碑は平成21年(2009年)10月建立。地蔵堂の翌年です。
小さな方の木碑の上に乗っていたのはとぐろを巻いた蛇でした。御所水辨財天は養蚕の神として祀られ、使いである蛇が養蚕の敵であるネズミを追い払うという言い伝えから養蚕農家の信仰をあつめました。
一の鳥居と祠
参道を歩いていくと石造の一の鳥居がありました。
建立は大正15年(1926年)5月。八王子大空襲を生き延びた歴史の証人です。
鳥居をくぐった参道右側の草むらに小さな石の祠。宝暦2年(1752年)の銘が入っているので、今から263年前に建立されたものです。8代将軍徳川吉宗が死去した翌年にあたります。
溶岩石の台座だけ残った何かの跡。
参道の中央が暗渠になっているのは、豊かな湧き水が流れていた名残りでしょう。
前方に二の鳥居と赤い屋根が見えてきました。御所水辨財天です。
二の鳥居と御社殿
二の鳥居は昭和6年(1931年)5月15日建立でした。2つの鳥居とも八王子大空襲以前からお社を守ってきたのです。
左右1対の石灯籠は大正15年(1926年)1月に建立されました。
赤い金属屋根の御社殿はまるで民家のよう。お社全体は谷地に建っています。
御鈴と叶緒(かねのお)。
扁額はちょっと変わっていて、寛永通宝199枚で「弁才天」と象ってありました。緑青を吹いているのは、江戸時代中期の勘定奉行・川井久敬が明和5年(1768年)から鋳造を開始した真鍮四文銭でしょう。背面に川井家の家紋である波が入っているところから波銭とも呼ばれます。発行初年は家紋通り二十一波でしたが、鋳造が困難だったため途中から十一波にするはめに。(クリックで拡大)
お賽銭箱は大正14年9月12日に寄進されたもの。
御社殿内部を窓ガラス越しに撮らせていただきました。(クリックで拡大)
よく見る弁天様は、手が2本でバチを持って奏する音楽の神様ですが、御所水辨財天には手が8本あります。持っているのも、弓、矢、刀、矛、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく)と全てが武器。鎮護国家の戦神としてのお姿です。
御所水開運辨財天
御社殿の横から奥に通じる道がありました。
そこにあったのは三の鳥居と小さな祠。一般に神社は参道正面に御拝殿、その裏に御本殿という配置です。ここが本来のお社でしょう。
赤いお屋根の祠と、右に石碑。
石碑には、「奉納 昭和四拾年九月吉日 御所水 開運辨財天 伍拾年記念」とありました。
祠の裏手は崖になっています。おそらく、北島先生の「いま富士森公園がある西側の丘陵から、清れつな湧き水がこんこんと流れだし」と書かれた水源は、この祠のあたりかと思いました。
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その昔。甲州街道を稼いで歩く門付け(かどづけ)の、祭文(さいもん)や音曲師(おんきょくし)、それに旅芸人などは、御所水村まで足をのばし、この御所水辨財天に技芸の向上を願ったそうです。(八王子市図書館報No.113より)
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参考資料:「武田信玄息女 松姫さま」(北島藤次郎著)、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス)
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| 2015-12-08 16:00
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