つぶやき/語り継ぎカフェ(前編)

秋田県横手に生まれて
語り継ぎカフェ"ある少年兵の証言"(前編)
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ある日、配信されたDMの中に「語り継ぎカフェ開催のお知らせ」がありました。主催は総務省委託団体の平和祈念展示資料館様。赤紙で招集された一般兵士の労苦や戦後強制抑留者の労苦、海外からの引揚者の方々の労苦をしっかり歴史の中に刻んでいくことを目的に設立された団体です。今年は昭和で数えれば87年、あの戦争からすでに67年も過ぎてしまいました。今、残しておかなければ消えてしまう一般庶民の歴史の記憶。今回は2月11日に東京・神田神保町の喫茶店で、元少年兵・鈴木忠典様が戦時を生き抜いた貴重な体験を語り継いでくださるそう。どんなお話しを聞かせていただけるのでしょう。

横須賀海兵団に入団

私は昭和3年(1928年)11月に秋田の横手で生まれました。家は農家で、父は農業指導員でした。境町国民学校高等科2年生の時、兄二人がすでに陸軍にいたため、私は海軍へ入ることにしました。昭和18年のことです。当時14歳で、クラスから5人横須賀海兵団に受験し、合格したのは私ひとりでした。

入団すると、最初の1週間は適性検査でした。私が振り分けられたのは海軍水雷学校、水雷は分かりやすくいうと魚雷です。魚雷は直径50cm、長さ2〜3mほどの大きさで、発射されると2m半ほどの水深で敵艦に突っ込んでいくんです。小学校の校舎くらいの大きさの船を1発で沈めてしまう大変な威力がありました。配属が決まった時に少将からいただいた訓話を憶えています。「この学校はお前たちに死ぬことを教える学校である。太平洋の防波堤となってもらいたい」すでに覚悟を決めておりましたので、不思議と違和感はありませんでした。
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海兵団の日々

当時、水雷学校では約6か月間の短期教育で水雷艇搭乗員を育成していました。英語や化学、三角関数などの学科や天体観測などの実習に加え、手旗信号やカッター(大型手漕ぎボート)訓練、遠泳など水兵としての基礎教育も受けました。海兵団の授業は、1日学科、次の1日が実技。1週間目ごとに試験が行われるというペースで、同期300人中何番だったかが発表されます。最初は180番台でした。成績が下位だと「一山いくらの存在」なんですね。負けじと一生懸命勉強しますが、みんなも同じように勉強するから、なかなか順位が上がりません。

カッターの練習では、時に「今日は30度!」の号令がかかります。全員のオールを30度の角度に揃えて保持するんです。これがなかなか揃わなくてねぇ。中でもきつかったのは救助訓練でした。海を立ち泳ぎしている私たちに向かって、横にアームを張り出した船が近づいてきます。アームには何個も自動車のタイヤがぶら下がっています。この、水面から60cmくらいの高さで移動してくるタイヤにつかまるんです。船だから常に同じ高さでタイヤがやってくるわけじゃない。上がり下がりしながら自分に近づいてくる。えいやっと飛びついて、うまく捕まえられれば救助成功。運悪く高く通り過ぎてしまったら、船が一周してくるまで泳いで待つことになります。一周に30分ほどかかるんですよ。

入団して3日目のことです。先輩に招集をかけられ、「お前たちに海軍の何たるかを教えてやる!足を開いて歯をくいしばれ!」と言われ整列させられました。並んだ向こうの方から、ビシャーン!ビシャーン!という音が近づいてくる。それは同期生が殴られる音でした。殴る方だって痛いんです。時々腫れた手をバケツの水で冷やしながら殴り続けていきます。

消灯時間になると部屋のあちこちですすり泣く声が。私も自然に涙が流れてきました。お父さんお母さんに会いたい。それでも、訓練を繰り返すうちに腹が座ってくる。気がつくと殴られるのも平気になっていました。

戦線へ

米軍の反攻が始まり、まわりがピリピリしてくる頃、正月の5日に戦線へ出発する命令が出ました。その前に3日の特別休暇が与えられ、家に帰る許可が出されました。けれども私の故郷横手へは片道19時間もかかります。行ったところで、家にいられるのはわずか数時間。列車が大雪で止まってしまったらとても帰れそうもない。戦線に出るということは死を意味していました。せめて母の手を握ってから旅立ちたいが、泣く泣くあきらめざるをえませんでした。
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気がつくと国鉄上野駅にやって来ていました。故郷横手へ繋がっている列車は15番線です。人に見えないようホームの柱の陰に立った私は、父母に敬礼しました。そして、学校の先生へ、故郷の友だちへ、合計3回の敬礼が私の惜別でした。そのまま海兵団へ戻った私に上級兵が声をかけてくれました。「帰らなくていいのか」、「大丈夫です!」「本当にいいのか」「大丈夫です!」「そうか…」。

出発の日。佐世保を船団で出港しました。まだ港が見える、まだ日本が見える、だんだん小さくなっていく島陰。双眼鏡が涙で曇ります。その涙を拭き拭き見続ける私たちでした。「いつまで見ているのか!」と怒鳴られても、双眼鏡から目を離すことができません。船団は途中、台湾→フィリピンで2泊と進んで、目的地ニューギニアのセレベス島ミナドに到着しました。ここが私たちの戦場です。

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鈴木忠典様のお話しは、実際に体験された方ならではの臨場感にあふれ、会場は水を打ったように静まり返ります。当時の社会のようす、戦地の兵はどのように考えていたのかを淡々と話されていきました。

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取材協力:平和祈念展示資料館(総務省委託)

「ある少年兵の証言」(全3話)
→秋田県横手に生まれて(当記事)
→魚雷艇と潜水艦
→故郷へ帰る日

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by u-t-r | 2012-02-28 16:34 | つぶやき

UTR不動産です。八王子の歴史や暮らしをコツコツ取材しています。基本は「現地で直接お話しを聞く!」。地元の話題が多いですが、どうぞお付き合いのほどを。


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