八王子見て歩記/松姫さま1

清和源氏の名門武田家の姫君
松姫さま(その1)
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浅川にかかる八王子の橋のひとつ、鶴巻橋の歩道に旅装束姿の貴婦人像が立っていました。歩きやすいよう腰でゆったりと端折った壷装束(つぼしょうぞく)、胸もとには懐刀を抱き、市女笠(いちめがさ)を少し上げて、行く道のりを確かめているお姿。この方の名は松姫さまと申します。地元っ子なら、八王子まつりで先頭を歩く時代劇風の若い女性と幼女3人の姿や、松姫もなかのモデルと言った方が分かりやすいかもしれません。戦国時代のお姫様と八王子にはいったいどんな由緒があるのでしょうか。

武田信玄の四女として誕生
松姫さまは、今から450年前の永禄4年(1561年)9月。戦国武将 武田信玄の四女としてお生まれになりました。母は甲斐の国、石和の里の東油川(山梨県東屋代郡石和町)出身の側室油川千里。なにぶん昔のことなので、五女という説、六女という説もありますが、この時代は子供が幼いうちに死んでしまうことが多かったためでしょう。姉二人はどうやら夭折してしまったらしい。
※当記事では「信松院のしおり」に従って四女といたしました。

その日、父信玄は宿敵上杉謙信と合戦するため信濃の川中島へ出陣している野営の陣中でした。早馬の使者から「姫出産!」の知らせをうけた時、信玄は大きな松の木を背にして床机(しょうぎ)に腰をおろし陣中指揮の真っ最中。このめでたい知らせを受けた信玄は「戦勝うたがいなし」と大いに喜び、於松(おまつ)と命名するよう使者に伝達しました。以来、家臣や城下の人々は松姫さまと呼ぶようになりました。床机にかける武田信玄の肖像画(信松院蔵)
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7歳と11歳の婚約
松姫さまが生まれたのはどんな時代だったのでしょう。前年の永禄3年(1560年)には今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られています。誕生年の永禄4年(1561年)は川中島の戦い、上杉謙信が北条氏康の小田原城を包囲。同年に利家とまつ、秀吉とねねが祝言を挙げています。戦国時代のオールスターがそろい踏み、武将たちがいくさに明け暮れていました。

この時代は本人の意思などまったく関係なしに姻戚関係を結ぶための結婚が行われており、武将や豪族の姫たちは政略の具として嫁入りしていきました。松姫さまも例外ではありません。織田信長の長男奇妙丸(のち信忠)との縁談が決まり、永禄10年(1567年)、わずか7歳で結納の日を迎えました。お相手の信忠は11歳。今で言えば小学校2年生と6年生の婚約です。
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この時の結納の金品は次のように言い伝えられています。

織田家から武田家へ
熨斗(のし)の代わりとして、四斗樽(72リットル)のこも被り1本、たくさんの酒の肴。松姫さまへは、帯地の厚い織物と着丈の織物、緯織の白の布地、紅梅色に染めぬいた織物などが100反ずつ、打ちかけに使う帯が上中下と組んで300筋。結納金としてお金が千貫。父信玄へ、虎と豹の毛皮が各5枚ずつ、厚いどんすの織物が100巻、金銀をちりばめた鞍とあぶみの馬具が10組つけ加えられていました。

武田家から織田家へ
花婿の奇妙丸へ、越中松倉郷の「義弘」作の名刀1振りと大左文字安吉作の脇差しを添えて一対、紅千斤と錦を千把。父信長へ、ローソク3000、漆塗りの桶と熊の毛皮1000枚、甲斐名産の駿馬10頭。

この頃は銅銭1貫文あればお米が3俵半〜4俵買えたので、結納金千貫は3,500〜4,000俵に匹敵するぐらいの価値がありました。農林水産省の統計資料によれば、平成20年度の「新潟コシヒカリ(一般)」最高値が10kgあたり4,344円なので、3,500俵としても196,000kgで実に8億5150万2400円の結納金!戦国大名の巨大な財力の一端がうかがえます。
※「米穀の卸売価格(平成18年~平成20年)」より

別れ
幼き日に契りを結んだ松姫さまと織田信忠。しかしこの二人が結婚することはなく、お互いの顔を見ることさえありませんでした。最後には敵・味方に別れてしまう悲しい運命が待ち受けていました。それから4年後の元亀2年(1571年)、松姫さまの母、油川御寮人は松姫さまの輿入れを待たずして44歳の若さで病没。翌元亀3年(1572年)の暮れ、美穂が原で戦った徳川の軍勢に織田軍から佐久間信盛ひきいる3000名が加勢したため、これを知った信玄が激怒。信忠との婚約は破談となりました。

あけて元亀4年(1573年)4月。三河の野田城を攻略した信玄は持病が再発、甲斐へ引き上げる途中、信州伊那の駒場の里で病死してしまいました。信忠と分かれさせられ、父母をも失った松姫さま、この時まだ11歳。すっかり憔悴して館にひきこもり、毎日、涙ながらの明け暮れを送るようになりました。しかし、悲運はまだ始まったばかりだったのです。同年、室町幕府が崩壊し元号も天正と改められ、安土桃山時代が始まります。
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長篠の戦い
信玄亡きあとの武田氏は四男の勝頼が継ぎますが、上杉謙信や織田信長など百戦錬磨の戦国大名に囲まれて父信玄ほどの才覚はなく、武将としての知謀術策にも劣っていました。天正3年(1575年)5月21日、時代は刀や槍から火縄銃へ移り変わっていったのに、相変わらず騎馬隊の突進力に頼る戦術に固執したため、長篠の戦いで織田・徳川連合軍の鉄砲隊に大敗を喫してしまいます。武田方戦死者は実に1万4千余名。名だたる有能な武将だけでも、甘利郷左衛門信康、内藤修理亮冒豊、土屋右衛門尉冒次、五味与惣兵衛貞氏、真田源太衛門信綱、真田兵部丞冒輝、山県三郎兵衛冒景、原隼人佐冒胤、馬場美濃守信房、小山田五郎兵衛冒輝、横田十郎兵衛康景、高坂又八郎助宣の12名も討死したのでした。

後世の江戸時代に描かれた武田二十四将の図(信松院蔵)。一番上真ん中に武田信玄(甲斐闘将源氏 武田法性院殿機山信玄大僧正)、左右に穴山梅雪と三枝勘解由左衛門尉守友、最下段左から二人目が山本勘助です。
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古参の軍師や重臣の多くを失った武田氏は急速に力が衰えていきます。新兵器鉄砲の威力を思い知った勝頼は、新たに韮崎へ新府城を建設することにしました。天正9年(1581年)12月、武田家3代が住んでいたつつじが崎の館を焼き払い、新築なった新府城に引っ越します。「人は城、人は生け垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」の言葉通り、騎馬軍団の威力で領地に攻め込まれることのなかった武田氏も防備を固めざるをえなくなったのです。

あけて天正10年(1582年)元旦には、新府城の築城祝いを兼ねて親族だけで盛大な祝賀を行いました。「春高楼の 花の宴 めぐる盃 かげさして」の「荒城の月」が描くような光景だったのではないでしょうか。

この年、武田家は滅亡への道をたどります。

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歴史に翻弄された生涯を送られた松姫さま。婚約したその日からふたりの運命は何度も交錯してはまた離れていきます。最後まで信忠を思っていた松姫さま。なぜかくも過酷な人生を過ごさなければならなかったのでしょう。その2は高遠城主の実兄盛頼の戦死です。

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取材協力:金龍山信松院、深澤山心源院、恩方第二小学校
参考資料:「武田信玄息女 松姫さま」(北島藤次郎著)

松姫さま(全7話)
→その1「清和源氏の名門武田家の姫君」(当記事)
→その2「高遠城陥落と兄盛頼の死」
→その3「武田氏滅亡と流転の旅」
→その4「逃避行-甲斐の国を逃れる」
→その5「信松尼となった松姫さま」
→その6「武田家の遺臣たちに慕われて」
→その7「最終話:松姫さまの残されたもの」

松姫さま四百年祭(全6話)
第1話「四百年ぶりの里帰り」
第2話「修行された地で里帰り大法要」
第3話「善男善女に送られて」
第4話「稚児たちをお供に御縁巡り」
第5話「松姫通りを信松院へ」
第6話「四百回忌大法要」

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by u-t-r | 2011-07-05 15:44 | 八王子見て歩記

UTR不動産です。八王子の歴史や暮らしをコツコツ取材しています。基本は「現地で直接お話しを聞く!」。地元の話題が多いですが、どうぞお付き合いのほどを。


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