八王子見て歩記/絹の道資料館(中編)
2013年 12月 24日
絹の道資料館(中編)
展示|エントランスと「絹の道物語」
「絹の道資料館(八王子市鑓水989-2)」は、絹の道の中心施設として桑都八王子の歴史を解説するとともに、大塚山公園〜御殿橋間を歩く方の休憩所としての機能も持っています。実際に使用されていた養蚕用具の展示や、生糸が染色され織物になるまでの資料が分かりやすく展示されています。山間の小さな農家の片隅で引かれた細い生糸は、太い束となり、大きな荷駄となって絹の道を通り抜け、横浜から海のシルクロードを渡って世界へと旅立っていったのです。順路に沿って展示を見ていきましょう。
エントランス
絹の道資料館のエントランスには、絹の道を散策する方のために広い休憩所が設けられており、ここでお弁当を食べることもできます。特に夏場、暑い中を歩いたあとはエアコンの涼風が心地いいです。飲み物の自動販売機は設置されていないので、来館される前にご用意ください。
風が気持ちいい季節は屋外のベンチでお弁当もいいですね。
エントランスの窓側にミニチュアの民家が展示されていました。茅葺きで入母屋造りの民家は、資料館近くに現存する小泉家住宅を模したもの。明治11年(1878年)に再建され、屋敷地とともに昭和47年(1972年)に東京都の有形民俗文化財に指定されました。実際の小泉家住宅は個人の所有物のため、勝手に敷地内へ入って見学・撮影などをすることはできません。
展示室受付
エントランスに面して、展示室の受付があり、ここで所定の見学申込書に住所・氏名などを記入して入館します。もちろん入場は無料です。
上がり口でスリッパに履き替えます。
絹の道物語
展示室は左右で10のブロックに分かれて絹の道がたどった歴史を解説していきます。暮らしに必要なものを運んだ道からはじまり、鉄道や道路にその役割をゆずって里道に変わっていった絹の道。タイトルは「絹の道物語」です。
絹の道物語-1:桑都縞市(そうとしまいち)
その1は「桑都縞市(そうとしまいち)」。江戸時代の中ごろから養蚕・製糸・織物が盛んで、桑都として知られていた八王子。大都市江戸では町人の経済力がつよまり、縞柄の絹織物が好まれるようになりました。やがて各地に定期的に織物市が成立するようになると、この市は縞市と呼ばれるようになります。
八王子周辺の村々の多くは山あいにあったため耕作地が少なく、江戸時代以来、養蚕は人々にとって大事な仕事でした。生糸や綿糸を織って反物にする機織りは手作業で、ほとんど女性の仕事だったのです。機織りの腕の良い悪いは女性の一生の問題にもなりました。このため、女性たちは神仏に願いをかけ腕の上達を祈りました。
絹の道物語-2:養蚕の発展
その2は「養蚕の発展」。江戸時代の前半ころまで、日本は生糸・絹織物を中国から輸入していました。それだけ養蚕と製糸の技術が立ちおくれていたのです。江戸後半期に入って、幕府は外国生糸の輸入を制限するとともに、農家の副業として養蚕を奨励することになります。このため、各地で蚕の飼い方の研究が進められ、多数の養蚕書が出版されて普及していきました。
天保13年(1842年)には蚕室の温度調整をするための蚕当計(温度計)が、19世紀末には繭から生糸をとる時に歯車を使って高速化する座操器がそれぞれ発明され、製糸技術が能率化されていったのです。
1から28まで数字が並んだカレンダーのような紙。蚕の卵を産みつけるための紙=種紙です。種紙に蚕の卵を産み付けさせるとき,複数の蛾の混入を防ぐためにひとつひとつの枠に蛾輪(がりん)を置き、そこに交尾した雌の蛾を入れて産卵させました。
絹の道物語-3:武州多摩郡鑓水村
鑓水が多摩郡の中で村となるのは、17世紀の中ごろで幕府の直接の支配地に含まれていました。その頃の検地帳から、村には少数の地主とわずかな田畑しかもたない多くの農民がいたことがわかります。農民を苦しめたのは領主の年貢と村の雑税でした。天明・天保の飢饉で、農民はいっそう生活が苦しくなり、土地を手放し小作人に転落する農民が増えました。農民は厳しい農作業の合間に労働だけで現金が手に入る仕事をさがしもとめ、こうして農間作業といわれる労働が活発になっていきます。
蚕は桑の葉を食べて育ちます。三齢になるまでは、桑切り包丁で桑の葉を刻んで与えました。四齢・五齢の蚕は葉をたくさん食べます。一枚一枚摘み取っていては間に合わないので、枝ごと切って家に持ち帰り、機械で葉をとりました。桑摘みは家族全員でやる仕事で、子どもたちも一生懸命手伝いました。
絹の道物語-4:生糸商人の成長
幕末期には高機などの普及で、織物技術が著しく進みました。このため八王子縞市では良質の絹織物が高価で取り引きされるようになり、生糸の需要も急激に増えていきました。このことはまた、養蚕・製糸と機織りの生産地を別々にし、能率よくつくることを促していきました。
四回脱皮した蚕は、体全体が少し透明になります。蚕が繭を作る合図です。蚕を一匹一匹拾って、藁で作ったまぶしに入れました。まぶしの中で蚕は糸をはいて繭を作ります。
絹の道物語-5:黒船来航と鑓水
一八世紀後半になると、欧米列強諸国では、商品の販売と原料の確保を目的としたアジア進出がしだいに本格化しました。日本にもそれらの勢力がおしよせ、黒船の来航をきっかけに開国への道を歩みはじめました。突然の黒船の出現は、幕府や江戸の人々ばかりではなく鑓水の人々にとっても大きな出来事だったのです。
幕府は黒船の来襲に備えて、江戸湾に11基の御台場(砲台)を造りはじめました。鑓水村には幕府が直接管理した御林があり、御台場建設のために松木丸太の伐採・運搬が行われました。建設を急いだ御台場も、翌年に幕府が日米和親条約を結ぶとその必要性が薄れ、11基のうち4基は建設を中止してしまいました。
蚕の繭からとれる糸を生糸といいます。鍋で繭を煮て、柔らかくなった生糸を座ぐりを使って手作業で一本一本糸をとりました。製糸工場では大きな機械を使い一度にたくさんの糸をとりました。
絹の道物語-6:世界へつながる絹の道
中世から江戸時代にかけて、関東地方は鎌倉街道や五街道の発達で宿場町が栄え、市がにぎわいました。しかし、当時の横浜はまだ小さな漁村にすぎませんでした。開港によって、横浜は文明開化の担い手として重要な港町となり、イギリス・アメリカなどとの海外貿易の拠点となりました。絹の道を通って横浜に運ばれた生糸は、輸出品の花形として欧米へ輸出されていったのです。
絹の道物語-7:生糸貿易
開港後の日本は、諸外国の新しい貿易市場となりました。生糸・茶、雑貨などのほか、銀や銅もさかんに輸出されました。中でも生糸は絹織物の需要が多かったヨーロッパへ、年を追うごとに輸出が増大しました。鎖国の中で行われてきた日本の生糸生産のコストは、国際的にかなり低かったことが大きな要因でした。
八王子市場では、開港以前はもっぱら糸の売り手だった鑓水商人が、この時期より糸の買い手になっていきます。八王子市で買い集めた生糸を横浜で売る輸出のための商売に切り替わっていったのです。
繭からとったままの生糸はとても細いので、数本をより合わせて丈夫な糸にします。この工程を撚糸(ねんし)といいます。この糸を高機にかけて反物を織っていきました。
絹の道物語-8:鑓水商人と道了堂
鑓水には、江戸時代から明治時代前半にかけて、豪商たちが残した数々の記念物があります。これらは村役人であり、大地主でもあった彼らが率先して神社や寺へ寄進したものでした。その代表ともいうべき寺院が、絹の道の出発点、大塚山公園にある道了堂です。
織物のはぎれがたくさん付いている本を織物見本帳といいます。ひとつは高機で織った布で、もうひとつは機械で織った布です。色や柄がそれぞれ違うのが分かります。
絹の道物語-9:西洋文明の道
開港地の横浜へつながる道は、西洋から入った文化を逆に国内へいきわたらせる役目をはたしました。横浜で発行される新聞や雑誌、ランプやマッチのような珍しい生活用具、そして自由思想やキリスト教といった新しい考え方までも、生糸が運ばれた道をたどって村々へ伝わりました。
大正時代〜昭和時代〜現在の織物工場の写真です。工場では多くの女性が立ち仕事で1日何時間も働きました。織物は八王子の重要な産業だったのです。
絹の道物語-10:生まれ変わる絹の道
開港後、横浜を最短距離で結んだ道は、やがて馬車や鉄道の発達によってその役割を変えていきました。明治5年(1872年)、東京・横浜間の鉄道の開通は、鉄路による物資の輸送が盛んになるはじまりとなりました。
鑓水商人たちが生糸集めに奔走し、海の向こうに利益の夢を見た時代はつかのまの出来事でした。機械製糸の大工場から生み出された生糸は大きな問屋の手にわたり、国の方策にそって輸出されていきました。従来からの生産者も組合をつくって独自の出荷をはじめるようになり、もはや糸商人たちには商売のうまみはどこにも残されない時代になっていったのです。こうして鑓水商人たちは新しい商売の方法をみつけだせないまま没落していきました。昭和32年(1957年)、鑓水峠に建立された石碑は「絹の道」という名を広く有名にしました。
八王子は昔から「織物の町」として栄えてきました。現在でもネクタイの生地などを中心にたくさん生産しています。八王子織物の技術を集めた「多摩織」は、伝統工芸品に指定されています。
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「絹の道物語」の中に懐かしい景色を発見しました。昭和58年ころ(1983年)、国鉄八王子駅北口にあった織物タワーの写真です。八王子駅ビルどころか東急スクエアもまだなく、駅舎が木造だったころの北口です。あまりに身近だったため撮影しておらず、地元のみなが知っているのに誰も写真を持っていないという…。
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取材協力:絹の道資料館
絹の道資料館(3話)
→前編:「鑓水商人たちの栄華・八木下要右衛門屋敷」
→中編:絹の道資料館|エントランスと「絹の道物語」(当記事)
→後編:絹の道資料館|「桑都八王子と鑓水の歴史」
日本のシルクロード「絹の道」を歩く(3話)
→前編:片倉台〜御殿山〜大塚山公園(道了堂跡)
→中編:大塚山公園(道了堂跡)〜絹の道〜庚申塚
→後編:北野台ルートと道了堂跡
展示|エントランスと「絹の道物語」
「絹の道資料館(八王子市鑓水989-2)」は、絹の道の中心施設として桑都八王子の歴史を解説するとともに、大塚山公園〜御殿橋間を歩く方の休憩所としての機能も持っています。実際に使用されていた養蚕用具の展示や、生糸が染色され織物になるまでの資料が分かりやすく展示されています。山間の小さな農家の片隅で引かれた細い生糸は、太い束となり、大きな荷駄となって絹の道を通り抜け、横浜から海のシルクロードを渡って世界へと旅立っていったのです。順路に沿って展示を見ていきましょう。
エントランス
絹の道資料館のエントランスには、絹の道を散策する方のために広い休憩所が設けられており、ここでお弁当を食べることもできます。特に夏場、暑い中を歩いたあとはエアコンの涼風が心地いいです。飲み物の自動販売機は設置されていないので、来館される前にご用意ください。
風が気持ちいい季節は屋外のベンチでお弁当もいいですね。
エントランスの窓側にミニチュアの民家が展示されていました。茅葺きで入母屋造りの民家は、資料館近くに現存する小泉家住宅を模したもの。明治11年(1878年)に再建され、屋敷地とともに昭和47年(1972年)に東京都の有形民俗文化財に指定されました。実際の小泉家住宅は個人の所有物のため、勝手に敷地内へ入って見学・撮影などをすることはできません。
展示室受付
エントランスに面して、展示室の受付があり、ここで所定の見学申込書に住所・氏名などを記入して入館します。もちろん入場は無料です。
上がり口でスリッパに履き替えます。
絹の道物語
展示室は左右で10のブロックに分かれて絹の道がたどった歴史を解説していきます。暮らしに必要なものを運んだ道からはじまり、鉄道や道路にその役割をゆずって里道に変わっていった絹の道。タイトルは「絹の道物語」です。
絹の道物語-1:桑都縞市(そうとしまいち)
その1は「桑都縞市(そうとしまいち)」。江戸時代の中ごろから養蚕・製糸・織物が盛んで、桑都として知られていた八王子。大都市江戸では町人の経済力がつよまり、縞柄の絹織物が好まれるようになりました。やがて各地に定期的に織物市が成立するようになると、この市は縞市と呼ばれるようになります。
八王子周辺の村々の多くは山あいにあったため耕作地が少なく、江戸時代以来、養蚕は人々にとって大事な仕事でした。生糸や綿糸を織って反物にする機織りは手作業で、ほとんど女性の仕事だったのです。機織りの腕の良い悪いは女性の一生の問題にもなりました。このため、女性たちは神仏に願いをかけ腕の上達を祈りました。
絹の道物語-2:養蚕の発展
その2は「養蚕の発展」。江戸時代の前半ころまで、日本は生糸・絹織物を中国から輸入していました。それだけ養蚕と製糸の技術が立ちおくれていたのです。江戸後半期に入って、幕府は外国生糸の輸入を制限するとともに、農家の副業として養蚕を奨励することになります。このため、各地で蚕の飼い方の研究が進められ、多数の養蚕書が出版されて普及していきました。
天保13年(1842年)には蚕室の温度調整をするための蚕当計(温度計)が、19世紀末には繭から生糸をとる時に歯車を使って高速化する座操器がそれぞれ発明され、製糸技術が能率化されていったのです。
1から28まで数字が並んだカレンダーのような紙。蚕の卵を産みつけるための紙=種紙です。種紙に蚕の卵を産み付けさせるとき,複数の蛾の混入を防ぐためにひとつひとつの枠に蛾輪(がりん)を置き、そこに交尾した雌の蛾を入れて産卵させました。
絹の道物語-3:武州多摩郡鑓水村
鑓水が多摩郡の中で村となるのは、17世紀の中ごろで幕府の直接の支配地に含まれていました。その頃の検地帳から、村には少数の地主とわずかな田畑しかもたない多くの農民がいたことがわかります。農民を苦しめたのは領主の年貢と村の雑税でした。天明・天保の飢饉で、農民はいっそう生活が苦しくなり、土地を手放し小作人に転落する農民が増えました。農民は厳しい農作業の合間に労働だけで現金が手に入る仕事をさがしもとめ、こうして農間作業といわれる労働が活発になっていきます。
蚕は桑の葉を食べて育ちます。三齢になるまでは、桑切り包丁で桑の葉を刻んで与えました。四齢・五齢の蚕は葉をたくさん食べます。一枚一枚摘み取っていては間に合わないので、枝ごと切って家に持ち帰り、機械で葉をとりました。桑摘みは家族全員でやる仕事で、子どもたちも一生懸命手伝いました。
絹の道物語-4:生糸商人の成長
幕末期には高機などの普及で、織物技術が著しく進みました。このため八王子縞市では良質の絹織物が高価で取り引きされるようになり、生糸の需要も急激に増えていきました。このことはまた、養蚕・製糸と機織りの生産地を別々にし、能率よくつくることを促していきました。
四回脱皮した蚕は、体全体が少し透明になります。蚕が繭を作る合図です。蚕を一匹一匹拾って、藁で作ったまぶしに入れました。まぶしの中で蚕は糸をはいて繭を作ります。
絹の道物語-5:黒船来航と鑓水
一八世紀後半になると、欧米列強諸国では、商品の販売と原料の確保を目的としたアジア進出がしだいに本格化しました。日本にもそれらの勢力がおしよせ、黒船の来航をきっかけに開国への道を歩みはじめました。突然の黒船の出現は、幕府や江戸の人々ばかりではなく鑓水の人々にとっても大きな出来事だったのです。
幕府は黒船の来襲に備えて、江戸湾に11基の御台場(砲台)を造りはじめました。鑓水村には幕府が直接管理した御林があり、御台場建設のために松木丸太の伐採・運搬が行われました。建設を急いだ御台場も、翌年に幕府が日米和親条約を結ぶとその必要性が薄れ、11基のうち4基は建設を中止してしまいました。
蚕の繭からとれる糸を生糸といいます。鍋で繭を煮て、柔らかくなった生糸を座ぐりを使って手作業で一本一本糸をとりました。製糸工場では大きな機械を使い一度にたくさんの糸をとりました。
絹の道物語-6:世界へつながる絹の道
中世から江戸時代にかけて、関東地方は鎌倉街道や五街道の発達で宿場町が栄え、市がにぎわいました。しかし、当時の横浜はまだ小さな漁村にすぎませんでした。開港によって、横浜は文明開化の担い手として重要な港町となり、イギリス・アメリカなどとの海外貿易の拠点となりました。絹の道を通って横浜に運ばれた生糸は、輸出品の花形として欧米へ輸出されていったのです。
絹の道物語-7:生糸貿易
開港後の日本は、諸外国の新しい貿易市場となりました。生糸・茶、雑貨などのほか、銀や銅もさかんに輸出されました。中でも生糸は絹織物の需要が多かったヨーロッパへ、年を追うごとに輸出が増大しました。鎖国の中で行われてきた日本の生糸生産のコストは、国際的にかなり低かったことが大きな要因でした。
八王子市場では、開港以前はもっぱら糸の売り手だった鑓水商人が、この時期より糸の買い手になっていきます。八王子市で買い集めた生糸を横浜で売る輸出のための商売に切り替わっていったのです。
繭からとったままの生糸はとても細いので、数本をより合わせて丈夫な糸にします。この工程を撚糸(ねんし)といいます。この糸を高機にかけて反物を織っていきました。
絹の道物語-8:鑓水商人と道了堂
鑓水には、江戸時代から明治時代前半にかけて、豪商たちが残した数々の記念物があります。これらは村役人であり、大地主でもあった彼らが率先して神社や寺へ寄進したものでした。その代表ともいうべき寺院が、絹の道の出発点、大塚山公園にある道了堂です。
織物のはぎれがたくさん付いている本を織物見本帳といいます。ひとつは高機で織った布で、もうひとつは機械で織った布です。色や柄がそれぞれ違うのが分かります。
絹の道物語-9:西洋文明の道
開港地の横浜へつながる道は、西洋から入った文化を逆に国内へいきわたらせる役目をはたしました。横浜で発行される新聞や雑誌、ランプやマッチのような珍しい生活用具、そして自由思想やキリスト教といった新しい考え方までも、生糸が運ばれた道をたどって村々へ伝わりました。
大正時代〜昭和時代〜現在の織物工場の写真です。工場では多くの女性が立ち仕事で1日何時間も働きました。織物は八王子の重要な産業だったのです。
絹の道物語-10:生まれ変わる絹の道
開港後、横浜を最短距離で結んだ道は、やがて馬車や鉄道の発達によってその役割を変えていきました。明治5年(1872年)、東京・横浜間の鉄道の開通は、鉄路による物資の輸送が盛んになるはじまりとなりました。
鑓水商人たちが生糸集めに奔走し、海の向こうに利益の夢を見た時代はつかのまの出来事でした。機械製糸の大工場から生み出された生糸は大きな問屋の手にわたり、国の方策にそって輸出されていきました。従来からの生産者も組合をつくって独自の出荷をはじめるようになり、もはや糸商人たちには商売のうまみはどこにも残されない時代になっていったのです。こうして鑓水商人たちは新しい商売の方法をみつけだせないまま没落していきました。昭和32年(1957年)、鑓水峠に建立された石碑は「絹の道」という名を広く有名にしました。
八王子は昔から「織物の町」として栄えてきました。現在でもネクタイの生地などを中心にたくさん生産しています。八王子織物の技術を集めた「多摩織」は、伝統工芸品に指定されています。
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「絹の道物語」の中に懐かしい景色を発見しました。昭和58年ころ(1983年)、国鉄八王子駅北口にあった織物タワーの写真です。八王子駅ビルどころか東急スクエアもまだなく、駅舎が木造だったころの北口です。あまりに身近だったため撮影しておらず、地元のみなが知っているのに誰も写真を持っていないという…。
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取材協力:絹の道資料館
絹の道資料館(3話)
→前編:「鑓水商人たちの栄華・八木下要右衛門屋敷」
→中編:絹の道資料館|エントランスと「絹の道物語」(当記事)
→後編:絹の道資料館|「桑都八王子と鑓水の歴史」
日本のシルクロード「絹の道」を歩く(3話)
→前編:片倉台〜御殿山〜大塚山公園(道了堂跡)
→中編:大塚山公園(道了堂跡)〜絹の道〜庚申塚
→後編:北野台ルートと道了堂跡
by u-t-r
| 2013-12-24 16:00
| 八王子見て歩記