八王子見て歩記/松姫さま4

逃避行-甲斐の国を逃れる
松姫さま(その4)
八王子見て歩記/松姫さま4_b0123486_2114166.jpg

そのころ、松姫さまはどうされていたのでしょう。
天正10年(1582年)2月下旬にたどりついた向獄寺で手あついもてなしを受けていた一行は、境内裏手にある小高い山の奥まったところに小屋を建ててもらい身を隠していました。伝わってくる世間のうわさは、武田家にとって悲惨なことばかり。3月2日には高遠城が落城して実兄の盛信が壮絶な戦死をとげ、11日には当主勝頼と一族が自害し果ててしまいます。

世情が混乱状態になるとともに、織田軍が武田一族の残党狩りをはじめたといううわさが流布されました。古府中(甲府)を中心に、国中の神社やお寺が厳しい捜査を受け、これと疑いをうけたら情け容赦もなく打ち首にされているというむごたらしい風評です。3月23日には恐れおののいた上於曽(かみおぞ)の村人たちは笛吹川を14kmもさかのぼった山中に逃げて身をかくしました。この時、向獄寺でも村人たちとともに貴重品を持ってこの山中に逃げ込み、三日三晩を過ごしたといいます。

相模の国をめざす
この混乱に紛れて、松姫さま一行は流転の逃避をはじめます。まず、向獄寺をあとに南へ向かい、岩崎の里から東に進路を変えて進みました。そう。兄勝頼が一夜を明かした大善寺から笹子峠に抜けるルートです。武田氏へ謀反を起こした小山田信茂の居城、岩殿城を大回りして避けるようにけわしい山道を歩き続けます。この時すでに小山田信茂は、滅亡の危機にある主君を裏切った不忠により織田信忠によって処刑されていたことを松姫さまたちは知る由もありません。

戦禍の地、甲斐から一日も早く逃れようと、幼子を連れた松姫さま一行は旅を急ぎます。3歳の督姫、4歳の貞姫と香具姫は、おともの侍が背負いつつ逃げていったのかもしれません。初日の23日は阿弥陀海道の宿で仮寝の一夜を過ごし、翌24日には下瀬戸で一夜を。25日もけわしい山道を東へ進み、やっとの思いで鶴川の山里に着きました。ここまで来れば、甲斐と相模の国境は目の前です。甲斐の国最後の一夜は鶴川で過ごします。あけて26日には険しい蛇行する山道を登り下りしながら下岩の山里にたどりつきました。もうここは相模の国、小田原の北条氏の領土です。松姫さま一行はとうとう甲斐の国からの脱出に成功したのです。
※クリックで地図を拡大できます。
八王子見て歩記/松姫さま4_b0123486_713743.jpg

案下峠を越えて
下岩から藤野に抜けると、そこは陣馬山の案下峠(今の和田峠)に抜ける西ふもとでした。この時、大雪に降られた一行はこの山里へ宿をとったといいます。あけて27日は温かい天気に恵まれました。雪どけの中を歩いて案下峠に着いた松姫さまは、1本のかわいらしい松の木を見つけ、それを持って峠を下りました。松の木はその後信松院で360年も生き続け、惜しくも昭和22年(1947年)に枯れてしまいます。

案下峠(和田峠)から4kmほど下った上案下という山里に着き、民家で一休みさせてもらいました。幸いなことにこの家はかつて武田家の家来であったため、「松姫さまの一行をお迎えして、丁重にもてなした」という言い伝えが今でも残っているのだそう。案下峠の途中から道に沿って恩方川の渓流が流れています。川に沿ってさらに道を下り、上恩方の里にたどり着きました。
八王子見て歩記/松姫さま4_b0123486_729875.jpg

金照庵を仮住まいに
上恩方に着いた松姫さま一行は、旧家の屋敷西隅にある草庵「金照庵」で一夜の宿をお願いします。その夜、老僧に実情を打ち明け、いろいろと身のふりかたを相談したところ、親身になって相談にのってくれた老僧は「しばらくの間、この寺へ身を隠し、時期をみるがよい」とさとしてくれました。そこで一行は、この金照庵にお世話になることになったのです。

金照庵があった跡地は、今では恩方第二小学校となっています。道路から40mほど入った校庭の一角に7間×4間(12.73m×7.28m)の草庵があったそう。校庭の北東隅、滑り台の置いてある場所あたりがそうです。金照庵はその後寺小屋として利用され、明治期になって恩方第二小学校となりました。
八王子見て歩記/松姫さま4_b0123486_8739.jpg

旧校門の外から見学すると、その場所はすぐ目の前でした。今、校庭になっている場所に、以前は旧校舎があり、その前身は寺小屋として使われていた金照庵でした。
八王子見て歩記/松姫さま4_b0123486_812541.jpg

金照庵については伝承とともに、地元旧家に江戸時代の古地図が残されています。神社の右手にある小さな家が金照庵。松姫さまが長らく住んだ金照庵は、天保3年(1832年)に無住の寺となり、一時は寺小屋として使われましたが、明治6年(1873年)に学校制度が実施された後、浅川学舍となります。今の恩方第二小学校の前身です。取り壊されたのは明治8年(1875年)のことでした。松姫さまがお住まいになってから293年後のことです。
※クリックで拡大できます。
八王子見て歩記/松姫さま4_b0123486_1064082.jpg

金照庵の名残りは何か残っていないのでしょうか。北島藤次郎先生の著書によると、草庵と同じ敷地に建っていた御獄神社が取り壊された際、敷地北側の小高い山腹に祠を建てて、その中に小さな薬師如来の木彫座像を安置しました。これが昔、金照庵の御本尊であったものだといわれているそうです。木彫座像は今でも旧家に大切に保存されていました。ご当主のお話しでは銘が入っていないので由来はよく分からないそうです。
八王子見て歩記/松姫さま4_b0123486_8525389.jpg

織田信忠の死
武田氏を攻め滅ぼした織田氏の栄華も長くは続きませんでした。天正10年(1582年)6月2日、上洛した信長は明智光秀の謀反により本能寺で討ち取られてしまいます。知らせを聞いた信忠は父信長の救援に向かいますが、途中、信長自害を知り二条新御所に篭城善戦ののち同じく自害に追い込まれます。武田氏滅亡からわずか3か月後のことでした。

松姫さまが仏門へ帰依されることを決めたのはこの年の秋。松姫さま22歳の時でした。

-----------------------------------------------------------------------------------------------

上恩方に逃げ延びた松姫さまはほっと一息ついたことでしょう。けれど、一緒に連れて逃げた3人の姫はまだ3歳と4歳の幼子。親を失った姫たちを育て、生計の道もつけなければなりません。この時、松姫さまはまだ21歳。

-----------------------------------------------------------------------------------------------
取材協力:金龍山信松院、深澤山心源院、恩方第二小学校
参考資料:「武田信玄息女 松姫さま」(北島藤次郎著)

松姫さま(全7話)
→その1「清和源氏の名門武田家の姫君」
→その2「高遠城陥落と兄盛頼の死」
→その3「武田氏滅亡と流転の旅」
→その4「逃避行-甲斐の国を逃れる」(当記事)
→その5「信松尼となった松姫さま」
→その6「武田家の遺臣たちに慕われて」
→その7「最終話:松姫さまの残されたもの」

松姫さま四百年祭(全6話)
第1話「四百年ぶりの里帰り」
第2話「修行された地で里帰り大法要」
第3話「善男善女に送られて」
第4話「稚児たちをお供に御縁巡り」
第5話「松姫通りを信松院へ」
第6話「四百回忌大法要」

ブログランキング・にほんブログ村へ

by u-t-r | 2011-07-27 07:32 | 八王子見て歩記

UTR不動産です。八王子の歴史や暮らしをコツコツ取材しています。基本は「現地で直接お話しを聞く!」。地元の話題が多いですが、どうぞお付き合いのほどを。


by UTR不動産
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31